ライムは祈り、スイングは呼吸──ヒップホップ仏教徒の朝練習

午前5時。都市の喧騒がまだ目覚めぬ時間帯。夜明け前の霞がかった空気のなか、一人の男が静かに芝の上に立つ。彼の手にあるのはマイクでも経典でもなく、一本のパター。ヒップホップと仏教とゴルフ──一見、異なる次元に存在するこの三つの世界を、彼は一つの流れとして生きている。「ラップも、仏教も、ゴルフも、“今ここ”にいることがすべて。未来や過去にとらわれてたら、芯を食ったショットも、いいライムも出ない」そう語る彼の朝は、呼吸と沈黙とグルーヴに包まれている。自己を解放し、意識を鎮め、空間と一体化するような朝練──それはスポーツのトレーニングではなく、一種の“行”に近い。

韻を踏むことは、無常を知ることに似ている

ヒップホップのフリースタイルには、即興性と自己超越が共存している。言葉を紡ごうとするのではなく、“降りてくるもの”を口にする感覚。彼はこう言う。「フローに入ったとき、考えてはいない。意識してると崩れる。無意識とつながってる感じ。頭は“空(くう)”の状態。祈ってるのと似てるよ」その感覚は、まさに仏教における“無我”の境地。禅僧が座禅で得る「空の気づき」と、MCがマイクを通じて感じる一体感は、同じ心の地平を目指しているのかもしれない。瞬間に生きること、執着を手放すこと、言葉を音に委ねること。ライムとは、現代に生きる者のマントラなのだ。

スイングは呼吸。力まず、逆らわず、ただ委ねる

芝生に立ち、アドレスを整える。彼の呼吸は深く、静かだ。クラブを振る瞬間は、息を吐く瞬間でもある。「ゴルフってね、“打とう”とすると失敗する。“打たせていただく”って気持ちの方が真っ直ぐ飛ぶ。これ、ラップと全く一緒なんだよ」彼にとって、クラブを握ることはマイクを握ることと同じだ。そこに力みがあれば、フローも軌道も乱れる。フォームに意識を向けすぎると、逆にスピリットが死ぬ。仏教では「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)」──歩く・立つ・座る・寝るすべてが修行とされるが、彼にとっては「打つ・読む・吐く・踏む」すべてが自己鍛錬であり、内省の時間である。

朝の修行:5時のラウンド、7時のスタジオ、夜は現代の法話

彼の一日は明確に分かれているが、すべての行動はひとつの“軸”で貫かれている。5時、ゴルフ場で精神と身体を整える。7時、スタジオに入り、音に魂を乗せる。夜はSNSや動画で、若者たちに“法話”のようなメッセージを届ける。「最近の若い子たちって、説教は嫌がる。でも、怒りや不安をどう扱うかって話にはすごく反応する。だから、仏教の言葉をそのまま使うんじゃなくて、音楽とか芝の話に置き換えて話すんだよ」怒りはOB(アウト・オブ・バウンズ)を生む。執着は手首を固める。恐怖はフリースタイルを止める。彼の言葉には、教義以上に体験がある。だからこそ届く。

仏教×ビート×フェアウェイ──三位一体のカルマ修行

祈りとは、静寂の中にあるだけではない。ビートに乗せた詩もまた祈りであり、静かに振り抜くスイングもまた祈りだ。マントラとライム、座禅とアドレス、道着とフードパーカー──彼にとってそれらは、すべて「道具」ではなく「器」である。悟りとは、どこか遠くにある神秘的な境地ではない。たった今の、呼吸ひとつ、言葉ひとつ、スイングひとつのなかに、仏性は宿っている。ゴルフは、競技ではなく“観音の道場”。ラップは、戦いではなく“声明(しょうみょう)”。そして、朝の練習とは、仏教徒としての“プレイ”そのものである。

ライムは祈り。スイングは呼吸。そして、生きることそのものがフローだ。

彼のように三つの文化を身体で生きる人々こそ、21世紀の“行者”かもしれない。私たちもまた、日々の行動を通して、自分なりの“朝練”を始めてみるべき時なのかもしれない。