<カウンターカルチャー>戦争と精神性の大麻史実

<カウンターカルチャー>
戦争と精神性の大麻史実

-長吉秀夫

第二次大戦後、世界は疲弊していた。

世界の若きリーダーとなったアメリカは、世界の治安を維持するという高き志しを持つ一方、それを支えるための力の源として、石油や武器産業を拡大していく。これによって、世界中でいくつもの戦争や紛争が勃発していった。そしてこの流れは、ウクライナとロシアやイスラエルとイスラム世界との戦争となり、現在も続いている。

戦争を引き起こすのは国や資本家である。しかし、戦場で銃口を向け合うことになるのは、それまで街で務めていた市民や、農家や農場で生活していた普通のひとたちである。彼らは、ある日突然大きな力に翻弄されて、理不尽な殺し合いを強要される。それが戦争だ。

住み慣れた家から遠く離れたベトナムのジャングルの中で、ベトコンに突然襲い掛かられ殺される。恐怖の極限の中で、大声で叫びながら銃の引き金を引き続ける。ふと気が緩んだ瞬間に、隣にいたはずの戦友が、地雷で破裂し目の前から消える…

戦後日本に暮らす僕たちに、このリアリティがわかるだろうか。

20世紀以降アメリカの若者たちは、常に理不尽な戦場に駆り出されてきた。彼らは、そのたびに疲弊し、トラウマを抱え、しかしそれに反発していく。アメリカ人らしいエネルギーだ。

このエネルギーが、カウンターカルチャーという新しい文化を生み出した。第二次大戦後のビートニクや、ベトナム戦争におけるヒッピームーブメントがそれだ。そして、この二つの文化にとって大麻は、なくてはならない存在だった。

大麻を吸うと、リラックスするとともに自分や周囲の状況を俯瞰して深く考察することができる。内なる混乱のカオスを落ち着かせ、抱えている恐怖の根源を見つめることで、整理しながら、少ずつ、自分を取り戻すことができる。これが大麻による変性意識効果の特徴である。

ベトナム戦争によって大麻を知った多くのアメリカの若者たち。その中に、後にマリファナの伝道師と呼ばれたデニス・ペロンがいた。

ペロンは、ベトナムの戦場で夥しい数の死体を目にした。その光景に深く心を痛め、戦場で銃の引き金を引くことを拒否しつづけた彼は、ベトナムの戦地を去る際に大量のマリファナを米国内に持ち帰った。そして彼は、サンフランシスコのヘイトアシュベリー地区にマリファナを扱うフリースペースをつくった。これが、ヒッピームーブメントの大きな柱のひとつだ。
ベトナム戦争に駆り出されてきた多くのアメリカの若者たちは、国や大きな力に抗いながら、大麻によって自らを癒してきた。

ラブ&ピース。大麻草の葉が、原爆と戦争を反対するヒッピームーブメントのシンボルになったのは、このようなことが理由だ。

戦争から生まれたカウンターカルチャーと大麻の関係を、拙著「大麻入門」(幻冬舎刊)から抜粋して、以下に紹介したい。

幻冬舎新書「大麻入門」より

・ビートニクから生まれたカウンターカルチャー

1950年代に入ると、ビートニクと呼ばれる新しい文化が生まれる。第二次大戦以前の古い文化や風習を嫌い、ヘミングウェイに代表されるロストジェネレーションと呼ばれていた大人たちの文化と対抗すように生まれてきたビートジェネレーションによって生まれた文化である。

作家のウィリアム・バロウズ、ジャック・ケルアック、詩人のアレン・ギンズバーグが中心となって始まったこのカルチャーは、差別や戦争を反対するポエトリー・リーディングという詩の朗読会や、退屈なスウィングジャズから抜け出した即興性の強いモダンジャズなどとともに、大麻が重要なアイテムとなっていった。政治的で道徳的な側面から規制されていた大麻は、彼らにとって象徴的な存在になっていったのである。

決められたルールの中で生きるのではなく、自分の道を新たに開いていくことを信条としていたビートジェネレーションの若者たちにとって、大麻によるトリップは、まさに旅そのものだったのだろう。

このカルチャーはボブ・ディランなどのアーティストたちにも強い影響を与え、次世代であるヒッピーカルチャーへと続いていく。

「ヒッピー」という名は、ギンズバーグの代表作「吠える」の冒頭の一説「天使の顔をしたヒップスターたち」が由来だと言われている。

ビートニクが、カウンターカルチャーの中で、ジャズマンたちから受けっとったマリファナは、次の世代へとバトンタッチされていく。

・「1961年の麻薬単一条約」と「ヒッピームーブメント」

1961年。国際連合は、万国アヘン条約をはじめとした複数の麻薬統制ルールを簡素化するために、「1961年の麻薬単一条約」を採択した。この条約でも、万国アヘン条約同様に、大麻および大麻樹脂を規制した。そして新たに、大麻の栽培を許可する場合は、大麻を、アヘンの原料となるケシと同様に統制するよう規定したのである。さらに、医学と科学目的以外の大麻の使用を25年以内に止めなければならないという指針を打ち出したのである。

 一方、ケネディ政権下のアメリカでは、大麻の危険性についての見直しが行われていた。

麻薬と薬物中毒を研究するケネディ大統領の特別研究グループは、「大麻が、性犯罪などの反社会的な行動を引き起こすという評価を実証するには、証拠が不十分である」と1962年に発表している。また、ジョンソン政権下でも大麻には寛容な見解を示していた。しかし、連邦議会は一貫して、大麻は危険な麻薬であるとの見解を固持していた。

ここまでの経緯を見てもわかるように、麻薬としての大麻の評価は、時代の流れとともに微妙に変化していった。そのため、アメリカは1961年の麻薬単一条約を1967年まで批准しなかったのである。万国アヘン会議以来、麻薬問題の対応策を世界に向かって強く提案してきたアメリカだったが、大麻をヘロイン並みに規制することについては、一部の市民やリベラルな政治家の間から疑問視する意見も生まれてきた。

そして、1960年代後半、サンフランシスコを発信源としたフラワームーヴメントとともにヒッピーカルチャーが発生する。ロックミュージックとサイケデリックカルチャーは大麻とLSDとともにアメリカやイギリスから世界へ広まっていく。当時の若者たちは、新たな価値観を探していたのである。そして、70年代前半のベトナム戦争では、反戦と平和の象徴として大麻がクローズアップされた。大麻のイメージは、「Love & Peace」の言葉とともに世界へと発信されていった。

1970年代のアメリカは、60年代から泥沼化していたベトナム戦争の影響で、新しい価値観と古い因習との間で常に揺れ動いていた。

ベトナム戦争当時、CIA(アメリカ中央情報局)は、タイ、ラオス、ミャンマーの国境付近の山岳地帯、「ゴールデン・トライアングル」で工作活動を展開していた。この地域には、19世紀からアヘン精製所が密集しており、そこを掌握している武装集団は、アメリカの軍事作戦に従事していた。アメリカ政府は、その見返りとして、武装集団にアヘン製造・販売の利権を保証し、ベトナム戦争を有利に展開させようとしたのである。
これらの動きは、アメリカのジャーナリズムによって白日の下に晒され、アメリカの抱える麻薬と戦争の闇の部分が浮き彫りにされたのであった。

・今も続く、カウンターカルチャーとマリファナカルチャー

ヒッピーカルチャーや、そこから生まれたサイケデリックカルチャーは、その後の世界に大きな影響を与えていった。パーソナルコンピュータやインターネットの概念などには、これらの文化が投影されている。アップルコンピュータの創業者であるスティーブ・ジョブスも、若い頃からマリファナカルチャーに影響されていたといわれている。最先端のデジタルの世界の奥には、禅や瞑想などの東洋文化が潜んでいる。それらを繋げているのが、サイケデリックカルチャーであり、マリファナ文化でもあるといってもいいだろう。大麻合法化運動は、カウンターカルチャーを経験してきた運動家と、それを引き継いだ若者たちによって推し進められてきた。この傾向は、日本を含めた広い地域でみることができる。