ギャング、麻薬売人、ポン引き、殺人容疑から俳優、料理番組ホスト、アメリカンフットボールコーチ、子供向け歌番組の人気スターへ。Snoop Doggの驚くべき転身

Mika Väisänen, CC BY 3.0, via Wikimedia Commons

1971年10月20日、カリフォルニア州ロングビーチに生まれたカルバン・ブローダス。父親はベトナム戦争帰還兵で、戦功を称えられた勲章を持つ人物だったが、スヌープが生まれる前に母親と別れ、彼は母子家庭で育った。母はスヌープがスヌーピーに似ていると感じ、「Snoop」と呼んで可愛がった。

スヌープの祖父は、ギャングから遠ざけるために必死に努力していたが、13歳で祖父が亡くなり、その後教会に通うことをやめる。地元のアメリカンフットボールチームに参加し、そこから友人たちとの結びつきが強まっていくが、次々と仲間がギャングに加わり、彼もまた15歳でギャングの一員として麻薬の売人に転身。ギャングへの関与は深まり、暴力やドラッグ取引の世界に足を踏み入れることとなった。(本人は公にはギャングには属していないと語っている)

スヌープ・ドッグ:麻薬取引からラップ界のカリスマへ

1989年6月に高校を卒業後、スヌープはしばらく平穏な時期を過ごすが、すぐに再び麻薬取引に関与し、覆面警官に麻薬を売っている現場を押さえられ逮捕される。その後、スヌープは薬物関連で何度も逮捕され、91年まで刑務所を行き来するような荒れた生活を送った。この経験が彼に与えた影響は大きく、彼の音楽や人生観に強く反映されることとなる。

出所後、スヌープは従兄のネイト・ドッグ、友人のウォーレン・Gと共にグループ「213」を結成し、音楽の道へ進むことを決意。スヌープは「Snoop Doggy Dogg」と名乗り、デモテープを制作。ウォーレン・Gはそのテープをドクター・ドレーに届け、ドレーは彼の才能をすぐに認め、アルバム「Chronic」(1992)にスヌープを起用。その後、ドレーと共に活動を続けることになり、スヌープは一躍注目を浴びることとなった。

逆境を乗り越えヒップホップのリーダーへ

ドクター・ドレーの支援を受け、スヌープは「Death Row Records」と契約し、1993年にファーストアルバム「Doggystyle」をリリース。このアルバムは500万枚以上を売り上げ、スヌープはラップ界の新たなカリスマとなった。しかし、同年7月には銃刀法違反で逮捕され、8月には殺人容疑で再逮捕される。7月の逮捕は交通違反の際に車内から銃が見つかった軽犯罪であったが、8月に起きた事件はライバルギャングの若者を射殺したというものだった。

事件は、スヌープのアパートで起きた口論から発展した。ライバルの若者がスヌープの友人と口論し、その後スヌープのボディガードたちと共に追い詰め、最終的に公園で射殺されるという流れだ。警察は、スヌープとボディガードが殺人に関与したと判断し、スヌープは殺人容疑で起訴される。しかし、スヌープは自らが撃ったわけではないと主張し、裁判を経て無罪を勝ち取ることとなった。

1996年2月、スヌープは無罪判決を受け、セカンドアルバム「Tha Doggfather」の制作を開始。2パックとのコラボレーション「2 of Amerikaz Most Wanted」に参加し、親しい友情を深めた。しかし、1996年9月13日、2パックは銃撃によって命を落とし、その衝撃はスヌープにとっても大きな痛手となった。

その後、ドレーとの関係が悪化し、デス・ロウレコードからの独立を決意。契約満了後、1998年には「No Limit Records」と契約し、名前を「Snoop Dogg」に改名して新たなスタートを切った。音楽のスタイルも進化し、彼のキャリアは順調に続いていく。

ギャングからエンターテイメント界の巨星へ

2000年にはポルノ映画「Snoop Dogg’s Doggystyle」を監督。これが大ヒットし、ポルノ業界のオスカーとも言われるAVNアワードで賞を受賞。ギャングのイメージを完全に払拭し、ピンプのイメージを確立したスヌープは、音楽とエンターテイメント業界で圧倒的な存在感を放つこととなる。

2005年には、子どもたちが目標に向かって努力し続けるための放課後プログラム「Snoop Youth Football League」を設立。18年間で6万人以上の子供たちが参加し、スヌープは地域社会への貢献を続けている。

2010年には、ケイティ・ペリーのヒット曲「California Gurls」にフィーチャリング参加し、さらなる注目を浴びる。
2011年3月、脳卒中を患った従兄ネイト・ドッグの死を受けて人生を見つめ直し、ジャマイカでレゲエ文化とラスタファリ思想に触れる。思想や文化に心から共鳴し、ボブ・マーリーが象徴した「平和」「愛」「スピリチュアルな覚醒」といったメッセージを自らの音楽で伝えようとした。「ボブ・マーリーの魂を受け継いだ」と感じたと語っている。スヌープは「Snoop Dogg」の名前を捨て、レゲエアーティスト「Snoop Lion」として新たな音楽の道を歩み始める。

2016~2020年にはマーサ・スチュワートとの料理番組が放送され、2022年には子ども向けYouTubeチャンネル「Doggyland」を開設。これにより、彼の多才ぶりと影響力はさらに広がった。

2018年にはハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに名を刻むなど、彼の功績が広く認められた。ギャングの一員として恐れられ、殺人容疑で逮捕され、「アメリカで最も危険な男」と称されたスヌープ・ドッグ。今では世界的なエンターテイメント界の巨星となった彼の物語は、まさに不屈の精神を象徴するものだ。

エンターテイメント業界を超えた多角的ビジネス帝国

スヌープ・ドッグのビジネス展開は、その多才さとエンターテイメント業界での影響力を象徴している。大麻業界では自身のブランド「Leafs by Snoop」を立ち上げ、投資ファーム「Casa Verde Capital」を運営。彼のライフスタイルがそのままビジネスとして成り立っており、エンタメ業界における影響力を強く発揮している。

また、2020年にはイチゴ風味のジン「Indoggo Gin」を発表し、アルコール業界にも参入。さらに、19 Crimesとのコラボで「Snoop Cali Red」ワインをプロデュースし、いずれも大きな話題を呼んだ。アルコールやワインの分野でもスヌープは独自のセンスを発揮し、ファンを魅了している。

食品業界では「スヌープス・スナック」やレシピ本「From Crook to Cook」で、料理好きな一面を披露。「Snoop Doggs」ホットドッグブランドやアイスクリーム「Snoop’s Dream Ice Cream」なども登場し、エンターテイメントと食を融合させたビジネスモデルを展開している。

ゲーム好きとしても知られるスヌープは、ゲーム配信サービス「Twitch」やEスポーツチームへの投資を行い影響力を広げている。また、ファッション界では「Snoop Dogg Clothing」ブランドを展開し、Adidasとのコラボレーションも実現。これにより、ファッション業界でも注目される存在となった。

スヌープは「Snoopverse」を開設し、メタバースにも進出。音楽から映画、テレビ、食品、アルコール、ゲーム、ファッション、大麻ビジネスに至るまで、スヌープ・ドッグはエンターテイメント業界の枠を越えて自らの世界を築き上げている。