ラッパーはなぜ、麻薬と闘い、麻薬を讃えるのか?

“反ドラッグ”と“肯定ドラッグ”、二つの真実のあいだで

自由か、破滅か──矛盾する言葉に宿るリアル

「ドラッグは俺の人生を変えた。いい意味でも、悪い意味でも」この言葉は、アメリカの若手ラッパーJuice WRLDが死の数カ月前に残した一節だ。彼は2019年、薬物の過剰摂取により21歳でこの世を去った。その楽曲には常に、ドラッグへの憧れと恐怖、解放と依存が共存していた。実は、この“矛盾した感情”こそ、ヒップホップがドラッグを描く際の核である。現代のラップを聴けば、リリックの中に当たり前のようにウィード、シロップ、ザナックスが登場する。だがその一方で、「薬物で仲間を失った」「中毒から抜け出したい」といった痛切な叫びもまた、同じマイクから発せられている。なぜラッパーは、麻薬を美化し、同時に否定するのか?その“二重性”の奥にある、現代HIPHOPの「リアル」に迫った。

“讃える”ことで、自分の過去を語る

「麻薬は、俺たちにとって“生き抜いた証”でもあるんだよ」そう語るのは、東京のあるベテランMC。彼にとって、大麻やドラッグはただの“嗜好品”ではなく、サバイブの象徴だった。ヒップホップのルーツは、貧困と犯罪、差別の中で育ったコミュニティにある。その現実の中で、ドラッグは仕事でもあり、逃避でもあり、絆でもあった。たとえば、アメリカのSnoop DoggやWiz Khalifaが吸うウィードは、単なるリラックスの手段ではない。それは「社会に認められない者が、自分自身を取り戻すための儀式」であり、抑圧に対する文化的なカウンターでもある。日本でも、舐達麻やRed Eyeといったアーティストが大麻をライフスタイルとして描くことに、同様の文脈がある。“吸う”ことは、単なる趣味ではなく、自分たちの“生”の在り方を提示する表現なのだ。

だが、闘いもまた現実だ

同時に、ラッパーたちはドラッグの代償を知っている。それは幻想ではなく、あまりに多くの仲間が命を落とした、現実の痛みだ。2018年に亡くなったMac Miller、2017年に逝ったLil Peep、そしてJuice WRLD。彼らは皆、若くしてドラッグに呑まれ、音楽だけを残して旅立った。その死を経て、仲間たちは楽曲の中で“美化しすぎたドラッグ”に対する後悔を語り始めた。アメリカではKendrick Lamarが、「中毒は神との接続を断つ」と宗教的に戒めるリリックを残し、日本でもラッパーの漢 a.k.a. GAMIが逮捕後の沈黙の中で「自由とは何か」を問い直し続けている。Red EyeはYouTubeで「依存はダサい。吸っても支配されるな」と明言している。その言葉には、“楽しむこと”と“壊されないこと”の両立が読み取れる。

肯定と否定のあいだにこそ、“本物”はある

この“二重性”は、決して矛盾ではない。むしろヒップホップとは、もともと矛盾を抱えた芸術なのだ。銃を持って平和を語り、金を誇示しながら仲間の死を悼む。それが「リアル」だという文化において、ドラッグに対するこのスタンスもまた、誠実な表現といえる。音楽とは、正しさを説くものではなく、現実を映す鏡である。ラッパーたちは、その鏡を曇らせずに見せようとしているだけなのかもしれない。

問いを残すこと、それがヒップホップの役割

ラッパーたちは、ドラッグを正当化しているわけでも、美化しているわけでもない。彼らは「これは、俺たちの現実だ」と語っているにすぎない。そこにあるのは、“これをどう受け取るかは、お前の問題だ”というスタンス。表現者としての責任を放棄しているのではなく、問いを手渡しているのだ。薬物と音楽。破壊と創造。その狭間で言葉を磨く彼らの姿こそが、いま、最もリアルなアートなのかもしれない。