王と責任の哲学


「王」とは、特別な血筋や肩書の話ではない。
ここで言う王とは、判断の最終責任を引き受ける立場のことだ。
組織でも、会社でも、家庭でも、
最終的に「決め」「背負う」者がいる。
その瞬間、人は王になる。
この王という存在を理解するには、
プラトン と
アリストテレス
二人の哲学を重ねて見る必要がある。
プラトンが理想としたのは「哲人王」だった。
それは、
権力を欲する者ではなく
富を追う者でもなく
人から評価されたい者でもない
ただ「善とは何か」を知っている者。
彼にとって、王の資格とは
上の世界を見たことがあるかどうか、
つまり
何が正しいか
何が正義か
何が人を壊すか
を、感情や損得を超えて知っているか、だった。
この王は、
現実世界を愛してはいない。
むしろ「危うい場所」だと知っている。
それでも戻ってくる。
なぜなら、
見えてしまった者には責任が発生するからだ。
一方、アリストテレスは違う。
彼にとって王とは、
善を語る者ではなく
善を実装する者だった。
人は理想どおりには動かない。
感情に流され、恐れ、保身する。
だから制度が必要で、
役割が必要で、
罰と報酬が必要になる。
王とは、
この不完全な人間社会を前提にしながら、
それでも破綻しない仕組みを設計する者。
つまり、
上から降りてくる理想を
そのまま振りかざす者ではなく
下の世界で機能する形に変換する者
である。
ここには、
夢や高潔さよりも、
粘り強さと現実感覚が求められる。
王の立場に立つと、
ある種の人間が最も危険であることがわかる。
それは、
正しさを語るが、
決断はしない人
理想を掲げるが、
結果には関与しない人
責任は王に押しつけ、
失敗すれば批評に回る人
これはプラトン的でもなく、
アリストテレス的でもない。
上を見ているふりをした
下からの回避だ。
王とは、
「間違える可能性」を引き受ける者であり、
安全圏から正論を投げる者ではない。
王は、常に板挟みになる。
上からは、
理想
正義
理念
が降ってくる。
下からは、
現実
不満
恐怖
制約
が突き上げてくる。
この二つを同時に引き受けるのが、王の仕事だ。
上だけを見れば、
現場は壊れる。
下だけを見れば、
意味が死ぬ。
だから王は、
どちらにも完全には迎合しない。
理解されなくても、
選び続ける。
孤独とは、
仲間がいないことではない。
判断を代わってもらえない状態のことだ。
責任という言葉は、
多くの場合、重荷として語られる。
だが哲学的に見れば、
責任とは罰ではない。
それは、
結果から逃げない力
他人の失敗も含めて背負う覚悟
そして、次の一手を選び続ける能力
である。
責任を引き受けられない人は、
自由に見えて、実は常に他人に縛られている。
王は不自由に見えて、
実は最も自由だ。
なぜなら、
自分の判断で世界を一歩動かせるからだ。
王は任命されて生まれるものではない。
逃げられる場面で逃げなかったとき
責任を押し返せたとき
沈黙する方が得な場面で、言葉を選んだとき
人は王になる。
それは一瞬で終わることもあるし、
一生続くこともある。
重要なのは、
その瞬間に上と下の両方を見ていたかどうかだ。
理想を忘れず
現実から逃げず
その間に立ち続ける
それが、王の哲学であり、
責任の本質である。
プラトンは、
王に「見る目」を与えた。
アリストテレスは、
王に「耐える力」を与えた。
そして現代に生きる私たちは、
その両方を要求されている。
上を見て、意味を失わず
下を歩いて、責任から逃げない
王とは、
最も高い場所に立つ者ではない。
最も多くを引き受ける者のことなのだ。
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