「覚醒した者」が人を裁き始めるとき

――スピリチュアル界隈に蔓延する〈覚醒マウント〉の正体

スピリチュアル界隈には、静かだが非常に強力なマウントが存在する。
それは金や地位でも、知識量でもない。

「自分は覚醒している」
「相手はまだ目覚めていない」

この上下関係によって成立する、いわば〈覚醒マウント〉だ。

一見すると愛や調和を語っているようで、
その実態は、極めて世俗的で古典的な支配構造に近い。

覚醒マウントは「罰」を伴う

覚醒マウントの特徴は明確だ。
露骨な命令や暴力は使わない。
代わりに使われるのは、次のような「霊的な罰」である。

・距離を置く、無視する
・「波動が低い」と評価する
・「カルマが返ってくる」と脅す
・「まだ学びの段階」と位置づける
・過去の言動を「未熟さ」の証拠として固定する

これらはすべて、罰であり、支配の技術だ。

重要なのは、
罰を与えている側が「自分は罰していない」と本気で信じている点にある。

愛を知らない者ほど「覚醒」を欲しがる

覚醒マウントを取る人間の多くは、
人生のどこかで無条件の愛を受け取った経験がない。

・そのままで認められたことがない
・間違えても受け入れられたことがない
・弱さを見せたら切り捨てられてきた

こうした経験を持つ人は、
「そのままで価値がある」という感覚を内側に持てない。

だから代わりに、
覚醒・次元・波動・使命といった
“上位概念”を身にまとうことで、自分の存在価値を補強する。

覚醒は、本来は内面的な変化のはずだ。
しかし愛を知らない人間にとっては、
覚醒は他者より上に立つための肩書きに変質する。

覚醒マウントを取る人は、努力をしていない

もう一つの共通点がある。
覚醒マウントを常用する人間は、
現実世界での努力や試行錯誤をほとんど経験していない。

彼らが言う「修行」「学び」「統合」は、
多くの場合、次のようなものだ。

・内省という名の思考停止
・不快な現実からの撤退
・失敗を「宇宙の采配」で処理すること

本当の努力とは、
現実で転び、責任を引き受け、関係を壊し、やり直すことだ。

それを避けたまま
「自分はもう分かっている側」に立とうとすると、
他人の成長や自立が許せなくなる。

だから彼らは、
覚醒していない人を永遠の未熟者として固定する。

「下の者は、どんな行為でも罪にできる」という霊的暴力

覚醒マウントの核心には、非常に危険な思想がある。

「覚醒していない者の行為は、
解釈次第でいくらでもカルマや罪に変えられる」

・違和感を口にすれば「エゴ」
・反論すれば「恐れ」
・距離を取れば「逃避」
・傷ついたと言えば「被害者意識」

ここでは、行為そのものは問題ではない。
立場がすべてだ。

覚醒している側は常に正しく、
覚醒していない側は常に学ぶべき存在になる。

これは霊性を装った、
極めて原始的な支配構造に他ならない。

本当に覚醒している人は、人を裁かない

ここで、はっきり言えることがある。

本当に覚醒が起きた人間は、
他人を上下で見なくなる。

・罰を与えない
・恐怖を使わない
・相手の段階を固定しない
・去る人を追わない

覚醒とは、
自分が「裁く側」に立てるようになることではない。

むしろ、
裁く必要そのものが消えることだ。

覚醒マウントを取る人間は、
まだ恐怖の中にいる。
落ちること、見捨てられること、
価値がないと露呈することを恐れている。

覚醒マウントに違和感を覚えたあなたへ

もしあなたが
「この人たち、言っていることは愛だけど、
やっていることは支配じゃないか?」
と感じてしまったなら。

それはあなたの波動が低いからではない。
あなたが未熟だからでもない。

あなたの感覚が、現実に根ざしているだけだ。

覚醒とは、
人を縛るためのものではない。
人を小さくするための言葉でもない。

そして、
罰と罪を量産しなければ保てない覚醒は、
覚醒ではない。

それはただの
恐怖に霊性の衣を着せただけの構造だ。