大麻と石油 ~20世紀の亡霊

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-長吉秀夫
20世紀の大麻規制の裏には、石油産業の勃興がある。
20世紀初頭まで、大麻は多くの用途に使われていた。
衣服はもちろん、船を繋ぐロープや荷台にかける幌(ほろ)から洗濯紐などの麻縄など、日本では下駄の鼻緒や畳の縦糸などに使われていた。
「ゲタとタタミ?」
今ではピンとこないが、スニーカーやフローリングなんてないころは、下駄や草履の鼻緒や畳の縦糸は日本人の生活にはなくてはならないものだった。下駄や草履や、あるいはビーさんの鼻緒が切れて、途方に暮れたことは、僕も何度かある。つまり、戦前までの日本人にとって麻は、なくてはならないというよりも、人生の一部だったのだと思う。
茎の木質(オガラ)はチップにし土や漆喰に混ぜて壁をつくる。
大麻の種子(おのみ)はそのまま食べたる。日本では七味唐辛子に入っている、ちょっと大きなコロっとしたやつだ。
種子を搾った油(ヘンプシードオイル)も有用だ。
食用として、養たっぷりだ。だが大麻種子オイル(ヘンプシードオイル)は工業用での利用範囲もひろかった。ランプなどの灯油やペンキ塗料の溶剤に使われてきた。
実は、麻の実の油でもピーナッツオイルでも、ディーゼルエンジンが動く。もともと、このエンジンを考えたルドルフ・ディーゼルは、このエンジンをそのような目的でも使える動力としてつくった。
ようするに、現在、石油でつくることができる製品の多くは、大麻由来のバイオマス原料に置き換えることができるということだ。薬にしても、アスピリンからはじまった石油化学薬が出るまでは、生薬として使われてきた。
逆を返せば、現代の石油製品の多くは、大麻由来原料で作り出すことが可能ということだ。
新技術を使えば、もっと遠くへいける。大切なことは、それを実現させることができるライフスタイルを、実践できるか否かということだ。
難しいことではない。昔からの技術だ。だが、石油のパワーが生んだクレイジーでスピードに満ちた20世紀は既に終わっているのだ。
今回も、「大麻入門」からいくつか抜粋して紹介する、
1941年、アメリカと日本は激突した。中国本土に侵攻する日本軍に対して、連合国の若きリーダーであるアメリカは日本に占領されたアジア諸国を次々と奪還していく。
旧植民地主義経済に変わる新たな経済活動を行おうとした矢先の日本の侵攻だった。
アメリカとしては、中国をアヘンから解放し自国の市場とするための計画が台無しになってしまったというわけである。しかも日本の関東軍は中国国内でアヘンを製造し、中国や周辺国へ流出させて工作資金を調達していたのである。
アメリカ政府は、アジア市場の奪還と安定の為に膨大な軍事力で日本軍を撃破し、1945年、終戦を迎えた。
第二次大戦では、第一次大戦を上回る量の薬物が使用された。コカインやヘロイン、経口アンフェタミンは勿論、日本ではメタンフェタミンによる覚せい剤が兵士だけではなく国内の軍需工場で働く婦女子にまでも使用された。アメリカ兵も、コカインやモルヒネ以外に、アジアの中で大麻と出会い吸引習慣を身に着けた者が沢山いた。それとともに、アメリカが警戒したのが、旧日本軍が製造した大量のアヘンの闇市場への流出であった。
GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が占領統治する過程の中で、如何にしてその情報を掴みアヘンを一掃するかが、日本を新たなアメリカの市場として再生していく鍵であった。
アメリカは、日本国内の麻薬を日本政府が徹底的に管理するように命令を出していく。その中で、日本国内の大麻も戦後の日本政府の手で、精神変容物質と産業作物という両面において、徹底的に統制させていったのである。
終戦後の日本では、ヒロポンと呼ばれた覚せい剤による中毒とモルヒネやヘロインなどのアヘン系の麻薬の乱用ブームが何度となく繰り返される。その一方で大麻の乱用事件は殆ど発生しない時代が続いていく。
マリファナ課税法が施行された直後の1938年。ニューヨーク市長フランクリン・H・ラガーディアは、ニューヨーク医学アカデミーに対し、大麻研究のための分科委員会を設置することを要請した。内科医、精神科医、薬理学者、公衆衛生専門家、矯正局、衛生局、病院局の各長官、病院局精神医学部長、警察官などで構成された「ラガーディア委員会」と呼ばれる調査委員会では、1940年から4年間をかけて、大麻についての徹底検証を行った。その内容は、医学的、薬学的見地のみならず、大麻服用の影響下における家族に対する価値観やイデオロギーの変化に関する調査までもが行われた。
アンスリンガー長官率いる連邦麻薬取締局らが訴える大麻の危険性とはどれ程のものなのか、そして、大麻による精神変容作用が社会に及ぼす影響とはどのようなものなのか。ニューヨーク市民たちは、禁酒法時代の過ちを繰り返さないためにも、アルコールと入れ替わりに連邦政府から規制を求められているこの物質について、自らの手で検証したのである。
1944年、『ニューヨーク市におけるマリファナ問題』という表題の詳細な調査結果が発表された。
「ラガーディア報告」といわれるその内容は、「大麻を使用することで他の麻薬による満足感と同様な感覚が生じるが、大麻は凶悪犯罪の原因にはならない」というものだった。また、「連続使用による耐性も認められず、ヘロインやコカインなどへの嗜癖に進むことも、人格を変えることもない」と結論づけた。マスコミ報道に見られるような大麻吸引による破局的影響は確認されないというニューヨーク市の検査結果に、大都市を抱える全米の州政府は大いに考えさせられたに違いない。しかし、この時期は第二次大戦の真っ只中である。大麻に精神変容作用がある以上は、そして、それが享楽の道具となる以上は取り締まる必要がある。アンスリンガー長官を含めたアメリカ連邦政府関係者は、そう考えたのである。
大量の麻薬を使用した第二次世界大戦。その影響下にあった1940年代後半から50年代のアメリカは、薬物管理政策において強い厳罰政策を取っていく。そして、最も厳しいと言われた「ボッグス法」が1951年に連邦議会で成立する。これは、「必要的最低量刑」を定めたものである。必要的最低量刑とは執行猶予や仮釈放を一切認めない刑罰であり、大麻を含めた全ての麻薬事犯において、初犯者に対しても2年の拘禁刑が定められた。これにより、大麻を使用して逮捕された多くの未成年者たちも実刑に服すことになる。しかし、この法律の内容は裁判による審議を無視し、三権分立を侵しているとして、1954年に修正される。そして1956年には、この修正案に対応するように、未成年者へ薬物を販売した者に対しては、陪審員が死刑判決も選択することを可能にする麻薬取締法が成立した。
アメリカが薬事規制に対して最も厳しく望んでいた、終戦直後のこのような状況を見てみると、占領下における日本でも同様に厳しく取り締まられたであろうことがしっかりと見えてくる。
第二次大戦によって勝利を手にしたアメリカは、名実ともに世界のリーダーとなった。だからこそアメリカは、アヘン戦争時代から夢見ていた、自らが掲げる理想的な世界を実現すべく、麻薬・石油・軍事を統制しながら、世界市場経済を動かしていったのである。
アメリカ政府による大麻禁止の歴史を見てみると、ある疑問が浮かび上がる。
アメリカは、なぜ大麻を第二アヘン会議条約の規制対象にするように呼びかけたのか。アメリカ連邦麻薬捜査局は、なぜ強硬に大麻取締のために働きかけていったのか。そして、連邦政府を含む多くのアメリカの公的機関の検査によって、大麻の安全性が実証されてきたにも関わらず、現在においても尚、なぜ大麻はヘロインなどと同じ危険度の麻薬として、規制され続けているのだろうか。
1990年代にアメリカの大麻規制の歴史を新たな視点から解き、大麻解禁運動に大きな影響を与えた作家ジャック・ヘラーは、著書『大麻草と文明』(原題:The Emperor Wears No Clothes)の中で様々な文献資料を示しながら、1930年代の大麻禁止の主張には、もう一つの重要な意図があったとジャック・へラーは語っている。
アメリカが国際経済のイニシアティブを握るには、基盤となる産業の独占が必要だった。その産業とは、繊維産業である。羊毛や大麻や木綿の生産や紡績、加工品の販売、そして、その販売権の占有が莫大な利益を上げることは、イギリスの歴史を見れば明らかである。アメリカは、それらの原料に囚われない新たな繊維を開発し、独占しようとしていた。新しい繊維とは、石油を原料とするナイロンなどの化学繊維である。
19世紀末から20世紀前半にかけて、欧米では新たな繊維の開発に凌ぎを削っていた。イギリスやフランス、ドイツは、植物繊維であるセルロースを原料とした「レーヨン」などの人造絹糸を次々と発明していた。新しい特許を持ったそれらの新素材は、ヨーロッパのみならず日本などでも生産され、新たな国際マーケットを形成しつつあった。日本では1918年に、帝国人造絹糸(現在の帝人)がビスコース法(レーヨンの製造技術のひとつ)による人造絹糸の生産を開始している。
アメリカとしては、それらの植物由来の繊維とは全く異なった新繊維を開発する必要があった。その為、アメリカ政府は産業資本家たちと協力しながら研究を重ね、1936年に化学会社のデュポン社が石油を原料とした新繊維である「ナイロン」の開発に成功した。そして20世紀後半に向けて、アメリカはナイロンと石油による経済覇権を目指したのである。大麻や木綿のように生産の手間がかからず、テキサスなどから採れる豊富な石油を原料にしたナイロンやプラスチックなどの石油化学製品は、新興国アメリカの科学技術の結晶だった。その他にもデュポン社は、主に大麻などから作られていた紙を、木材パルプを原料として製造する技術も開発していた。また、1914年には、ゼネラルモーターズ(GM)に出資し、ピエール・S・デュポンが社長に就任している。そして、1919年から1931年の期間は、GMとは別に、デュポンでも自動車製作を行っていたのである。
このように20世紀初頭のアメリカのパワー・リーダーたちは、化学繊維や石油エネルギーを消費させる原油ビジネスを基幹産業とした国家体制を通して、世界覇権への構想を実行に移し始めたのである。
ジャック・ヘラーによると、石油繊維産業の発展のためには、その競合になる恐れのある大麻産業を取り除く必要があったと説いている。大麻から取れる質が高く豊富なセルロースからは、石油製品同様に様々な製品を作り出すことが可能である。大麻繊維産業だけではなく、大麻によるセルロースを使った人造絹糸やセルロイド等を改良していくことにより、石油産業と同じ市場を奪い合うことになることは明白だった。しかし、自国の大麻産業を真正面から潰していくことの出来ないアメリカ政府は、麻薬として批判され始めていた大麻に対する社会状況を利用して、毒性の強い麻薬として大麻を取り締まることにより、大麻産業そのものを消滅させようと企てたというわけだ。
今までアメリカが行ってきた石油産業を主軸とした世界戦略は、その初動の時期にアメリカ政府と産業資本家が深く関与し、大麻産業がその犠牲となったというジャック・ヘラーの説は、現在も多くの大麻肯定派に支持されている。
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