鏡を割らなかった家の話


その家には、
大きな鏡が一枚あった。
割れたことはない。
ただ、
少しも磨かれなかった。
ある日、
その家の主人は
鏡の前に立つのをやめた。
鏡の向こうに、
もっと明るく、
よく笑い、
一緒にいて楽しそうな影が
映ったからだ。
主人は思った。
私は奪われた
鏡を見直すことは、
しなかった。
代わりに、
物語を作った。
悪いのは
外に行った人だ
その物語は、
家を守ってくれた。
働かなくてもよくなり、
説明しなくてもよくなった。
鏡は、
そのまま壁に残った。
その家には、
小さな子がいた。
子は、
毎日同じ話を聞いた。
私は悪くない
裏切られただけだ
子は、
それを真実だと
思った。
鏡を見るより先に、
物語を見る目を
覚えた。
時が経ち、
子は家を出た。
そして、
よく似た部屋に入った。
そこにも、
鏡があった。
ある日、
鏡の向こうに
別の影が映った。
少し自由で、
少し楽しそうな影。
子は思った。
私も奪われた
鏡を磨くことは、
しなかった。
代わりに、
扉を閉めた。
部屋から、
人を追い出した。
その後、
部屋は静かになった。
人の気配が消え、
声が消えた。
けれど、
鏡はそこにあった。
見なければ、
自分は守られる。
そう信じていた。
やがて、
鏡に映らない人が
現れる。
こちらを見ない。
触れない。
評価しない。
その人は、
鏡の外にいる。
子は、
その人を追いかけた。
なぜなら、
その人の前では
鏡の存在を
忘れられたからだ。
一方で、
別の人も現れた。
鏡の前に立ち、
静かに待つ人。
何も奪わず、
何も決めず、
ただ一緒に
座ろうとする人。
その人は、
鏡を割ろうとしない。
磨くことも、
強要しない。
ただ、
そこにあることを
示すだけ。
子は、
その人が苦手だった。
その人といると、
鏡が
否応なく目に入る。
割れていないこと。
曇っていること。
触れれば映ること。
それが、
怖かった。
子は、
役割を選んだ。
あの人が悪い
そう言うことで、
鏡を見ずに
生きられる。
その言葉を
繰り返すほど、
足場は安定した。
やがて、
その言葉がないと
立てなくなった。
子は、
その人の上に
立つようになった。
見下ろすことで、
自分の位置が
分かるからだ。
それは、
勝利ではない。
転ばないための
踏み台だった。
鏡は、
割れていない。
磨かれていないだけだ。
映るかどうかは、
いつも
自分の手にある。
この話に、
悪者はいない。
あるのは、
見なかったことを
受け継いだ家
だけだ。
鏡を見る勇気は、
愛よりも先に
必要になることがある。
それは、
誰かを責めるためではない。
自分の足で
立つためだ。
鏡は、
責めない。
ただ、
映すだけだ。
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