麻は、なぜ何度も奪われてきたのか


守れない理想は、
何度でも奪われる。
問題は、
「力を持つかどうか」ではない。
守る覚悟と、
引き金を引かない理性を、
同時に持てるかどうかだ。
それは布であり、薬であり、祈りであり、
土地と人をつなぐ文化そのものだった。
にもかかわらず、
麻は何度も「危険なもの」とされ、
「遅れた文化」とされ、
静かに社会から切り離されてきた。
そのたびに失われたのは、
麻そのものではない。
麻と共に生きてきた人々の尊厳だった。
歴史を振り返れば明らかだ。
麻が排除された場所では、
必ず次の順番が訪れる。
文化が「非効率」と呼ばれ、
土地が「未開」と呼ばれ、
最後に人が「不要」と呼ばれる。
これは麻に限った話ではない。
先住民文化も、山の民も、
常に同じ順序で切り捨てられてきた。
一方で、まったく違う選択をした人たちもいた。
彼らは、
「管理」しなかった。
「統制」もしなかった。
「急いで稼ぐ」こともしなかった。
代わりに選んだのは、
時間をかけて見守ることだった。
山に暮らす人々の声を聞き、
その土地のやり方を尊重し、
「変えろ」と言わずに「守ろう」とした。
その結果、
麻は商品になる前に、
文化として息を吹き返した。
世界では今、
麻の合法化が進んでいる。
だが、すべてが成功しているわけではない。
制度は整っている。
法律もある。
市場もある。
それでも失敗する場所では、
共通点がある。
文化を守る人がいない。
止める勇気を持つ人がいない。
責任を引き受ける覚悟がない。
結果として、
量だけが増え、
質が落ち、
土地と人が疲弊していく。
誤解してはいけない。
麻は、
「何でも許される自由」の象徴ではない。
むしろ逆だ。
自然と共に生きるという制約。
嘘をつかないという制約。
奪わないという制約。
それを引き受ける覚悟があって、
初めて麻は文化として存在できる。
ラスタの精神が、
音楽と共に世界を巡ったのは偶然ではない。
それは反抗のためではなく、
尊厳を失わないための姿勢だった。
奪われても、
踏みにじられても、
それでも売らなかったものがある。
それが、文化だった。
旗もいらない。
スローガンもいらない。
誰かを動員する必要もない。
必要なのは、ただ一つ。
ここから先は売らない、
ここから先は奪わせない、
そう線を引ける人間がいるかどうか。
もし、
麻を文化として守る場所があったら。
もし、
短期の利益より尊厳を選ぶ人たちが集まったら。
もし、
失敗したときに
「自分が責任を取る」と言える人間がいたら。
それは、本当に理想論だろうか。
それとも、
これまで何度も奪われてきたものを
取り戻すために必要な、
最低限の覚悟なのだろうか。
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