「『核を持て』ではなく『考えるなと言うな』という話」


日本で「核」という言葉を出すと、
多くの場合、議論は始まる前に終わる。
「被爆国だから不謹慎だ」
「危険な思想だ」
「触れてはいけない話題だ」
こうして考えること自体が封じられる。
だが、元航空幕僚長・田母神俊雄氏の発言は、
しばしば誤解されている。
彼が言っているのは、
「今すぐ核を持て」という命令ではない。
「考えるなと言うな」
ただ、それだけの話だ。
このテーマを口にすれば、どうなるか。
炎上し、叩かれ、レッテルを貼られる。
それは田母神氏自身が一番よく分かっている。
それでも語るのは、
自分の評価や立場を犠牲にしてでも、
日本が避け続けてきた思考停止を壊したいからだ。
好かれるための発言ではない。
支持を集めるための言葉でもない。
むしろ、
批判される役を自ら引き受ける覚悟に近い。
田母神氏の主張の軸は、感情論ではない。
国際社会では、
●核を持つ国同士は直接戦争を避けてきた
●核を持たない国ほど、軍事的圧力を受けやすい
という現実が積み重なっている。
核は理想の兵器ではない。
だが、核が存在する世界で、
非核を選ぶことにもリスクがある。
その事実を直視しよう、という問題提起だ。
広島・長崎の記憶は、消せない。
軽んじていいものでもない。
しかし、だからといって
思考を止めていい理由にはならない。
むしろ、
二度と核が使われない世界を、
現実的にどう維持するのか
を考える責任が、日本にはある。
感情と議論は、分けていい。
分けなければ、現実は守れない。
この話題で重要なのは、
賛成か反対かではない。
●核を持つべきだと思ってもいい
●絶対に反対だと思ってもいい
ただ一つ危険なのは、
「考えるな」と言うことだ。
議論を封じた社会は、
自分の安全を他人任せにする。
「核を持て」ではない。
「考えるなと言うな」という話。
叩かれると分かっていても、
あえて口を開く人がいるから、
国は思考停止だけは免れている。
田母神俊雄氏の発言が突きつけているのは、
核の是非ではなく、
「日本は、自分の安全を自分で考える国なのか?」
という、極めてシンプルな問いだ。
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