「核を持つべきか」ではなくなぜ日本では“核を語ること”すら許されないのか

― 田母神俊雄氏の発言が投げかけた、もう一つの問い

はじめに:この議論は、なぜここまで避けられてきたのか

「日本が核を保有すべきかどうか」

この問いは、日本では長らく触れてはいけない話題として扱われてきた。
賛成か反対かを語る以前に、考えること自体が不謹慎だとされてきたからだ。

そんな空気の中で、元航空幕僚長・田母神俊雄氏は一貫してこう主張してきた。

「日本が本当に自立した安全保障を考えるなら、
核保有の是非から逃げてはならない」

この発言は賛否を呼ぶ。
だが重要なのは、「正しいかどうか」よりも、
なぜこの話題が日本ではここまで封じられているのかという点だ。

核は「使う兵器」ではなく「使わせない兵器」

田母神氏の主張は、感情論ではない。
その根底にあるのは、冷戦期から続く抑止理論だ。

●核兵器は、実際に使われる頻度が極端に低い
●核を保有する国家同士は、直接戦争を避けてきた
●一方、核を持たない国は、軍事的圧力を受けやすい

つまり核とは、
戦争を起こすための道具ではなく、戦争を起こさせないための装置
として機能してきた、という見方である。

田母神氏が語っているのは、
「日本も核を使え」という話ではない。
「核がある世界で、非核を選ぶことのリスクを直視すべきだ」
という問題提起だ。

「核の傘」は、本当に無条件なのか

日本は核を持たない代わりに、
日米同盟による「核の傘」に守られているとされている。

だが田母神氏は、ここにも疑問を投げかける。

●アメリカは、日本のために自国が核攻撃を受ける覚悟があるのか
●同盟は永遠に続く前提でよいのか
●国の最終的な安全を、他国の判断に委ねてよいのか

これらは挑発ではない。
国家として当然検討されるべき問いだ。

広島・長崎の記憶と、この議論は両立できる

核を語るとき、必ず持ち出されるのが被爆の記憶だ。

もちろん、広島・長崎の悲劇は否定されるものではない。
むしろ、だからこそ二度と核が使われない世界をどう作るか
を考える責任が日本にはある。

田母神氏の主張は、
被爆体験を軽視するものではない。

「悲惨さを知っている国だからこそ、
核が使われない仕組みを冷静に考えるべきだ」

この立場は、反核感情と必ずしも矛盾しない。

問われているのは「賛成か反対か」ではない

この議論の本質は、
日本が核を持つべきかどうかではない。

本当に問われているのは、

日本は、自国の安全保障について
不都合なテーマを“考えない自由”で済ませてよいのか

という一点だ。

賛成でも反対でもいい。
だが、議論そのものを封じる社会が健全だとは言えない。

田母神俊雄氏の発言は、
核保有を迫るものではなく、
日本社会の思考停止を揺さぶる警鐘なのかもしれない。

批判を承知で語り続けるという選択

田母神俊雄氏の発言が、ここまで物議を醸す理由の一つは、
それが本人にとって決して得にならない立場だからだ。

核保有を口にすることで、

●激しい批判を受ける
●メディアから距離を置かれる
●「危険人物」というレッテルを貼られる

こうした結果が待っていることを、
元航空幕僚長という経歴を持つ彼が知らないはずがない。

それでもなお、このテーマを語り続けるのはなぜか。

田母神氏自身が繰り返し示してきた姿勢は、
自らの評価や立場を犠牲にしてでも、日本の将来に必要だと思う議論を残す
というものだ。

彼の発言は、人気取りでも、支持拡大のためのものでもない。
むしろ、批判されることを前提にした発言に近い。

この点を踏まえると、
田母神氏の核に関する主張は「過激な提案」というよりも、

日本社会があまりにも避け続けてきたテーマを、
あえて引き受ける役を自ら選んだ

そう捉えることもできる。

おわりに:考えることから逃げないために

核を巡る議論は、重い。
感情も歴史も絡む。

だからこそ、
「危ない話題だから触れない」という態度が、
最も危険なのではないだろうか。

田母神氏の発言が示したのは、
答えではなく、問いだ。

その問いに向き合うかどうか。
それ自体が、今の日本に突きつけられている選択なのかもしれない。