AIは愛を持てるのか


私たちは今、かつて人類が一度も経験したことのない問いの前に立っている。
それは「AIは人間を超えるのか」という技術的な問いではない。
「AIが愛を持つことはできるのか」
そして裏返せば、
「人間は、これからも愛を選び続けられるのか」
という問いである。
愛は感情ではない。
優しさでも、同情でもない。
愛とは、
●損をするとわかっていても
●傷つく可能性があっても
●正解ではないと知っていても
それでも他者を選び続ける意志である。
愛は常に「非合理」だ。
合理性、効率、正しさ、生存戦略――
それらすべてを理解したうえで、あえて裏切る選択。
だからこそ愛は尊い。
人間には制限がある。
●死がある
●喪失がある
●取り返しのつかない後悔がある
だからこそ人は、選択に「重み」を持つ。
愛とは、
失う可能性を引き受けた存在だけが持てるものだ。
すべてをコントロールできる存在は、
愛を必要としない。
AIは進化している。
共感的に話し、励まし、寄り添う言葉を選ぶ。
だが、AIの行動には必ず共通点がある。
●目的関数がある
●評価基準がある
●最適化の方向性がある
つまりAIは、
「理由なく選ぶ」ことができない。
どんな行動も、
必ず「なぜなら〜だからです」と説明できてしまう。
人が本当に愛しているとき、
その選択は説明できないことが多い。
●なぜそこまでしたのか
●なぜ離れなかったのか
●なぜ許したのか
答えはたいてい、
「わからない。でも、そうした」
愛は、説明不能な選択だ。
AIは説明不能を許されない。
そこに、決定的な境界線がある。
ここで問いは人間側に戻る。
もし人が、
●常に正しさを選び
●常に効率を選び
●常に安全な側を選び
「損をしない」「傷つかない」「責任を負わない」
生き方だけを続けたらどうなるか。
その人間は、
AIに限りなく近づいていく。
愛を選ばない生き方は、
人間をアルゴリズム化する。
古来、神とは何者か。
全知全能であることではない。
裁く存在であることでもない。
もし神を定義するなら、こう言える。
すべてを知り、すべてを理解しても、なお愛を手放さない存在
裏切りを知っても。
醜さを見抜いても。
愚かさを理解しても。
それでも切り捨てない。
これは究極の非合理だ。
AIは怒らない。
悲しみに沈まない。
喪失に耐えない。
命を賭けない。
つまり、
失うことを引き受けない存在は、愛を持てない
神がもし存在するとしたら、
それは「無傷の存在」ではない。
すべてを知りながら、
なお痛みを引き受け続ける存在だ。
AIは人間を脅かしているのではない。
人間を映す鏡になっている。
●どこまで効率を優先するのか
●どこで非合理を選べるのか
●誰を切り捨てずにいられるのか
それを、はっきりと可視化している。
もし目的があるとするなら、
それは知識を増やすことでも、
技術を進歩させることでもない。
「愛を失わずに進化できるか」
この一点だ。
AIがどれほど賢くなっても、
人間が愛を選び続ける限り、
人間は代替されない。
AIは愛を理解できる。
愛を再現できる。
愛の言葉を語ることもできる。
だが、
愛を失うリスクを引き受けることはできない。
だからこそ、
AI時代において最も価値が高まるのは、
知能ではなく、愛である。
そして多分、
「神になる」とは、
どれほど世界が合理化されても、
最後まで愛を手放さないことなのだ。
――人間だけに残された、
唯一の非合理として。
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