「観光と農業の次に来るのは、“グリーン・ゴールド”だ」
タイは今、アジア初の“合法大麻国家”として、未踏のフロンティアに足を踏み入れた。医療大麻の解禁に始まり、2022年には事実上の非犯罪化に踏み切ったことで、世界の投資家と企業の注目を一身に集めている。政府は明確に掲げる──「タイをアジアの大麻ハブにする」と。だが、その裏側には、農業・医療・観光・貿易・政策という多層的かつ複合的な戦略が張り巡らされており、単なる経済政策ではなく、国家アイデンティティの再定義にまで踏み込んでいる。
“解禁”はゴールではない、産業革命の始まりだ
タイが本格的に大麻に舵を切ったのは、単なるリベラルな社会改革ではない。国家の経済モデルそのものを再設計するための、極めて現実的な賭けであり、その背景にはCOVID-19以降の観光依存からの脱却と“農村の再生”という喫緊の課題が横たわっていた。そこに浮上したのが、大麻(Cannabis)およびヘンプ(Hemp)を軸とした多角的産業構造だった。医療大麻による高付加価値作物の導入、CBD・食品・化粧品などの消費市場の創出、サステナブル素材としての繊維・建材市場への参入、さらには大麻観光による体験型経済の強化──これらを包括的に繋げることにより、大麻は「新しい米(ニューライス)」としての役割を果たし始めている。

タイ発 “Cannabis Valley”構想とは
タイ政府は2023年以降、北部のチェンマイ、東北のブリラム、中部のナコンサワンを拠点に、“Cannabis Valley”構想を推進している。この構想は、単なる栽培・販売にとどまらず、研究機関(大学・製薬系ラボ)、加工・製造業(CBD抽出、食品・飲料加工)、医療・観光施設(スパ・クリニック・ホテル)、輸出拠点(ASEAN・中東向け)といった垂直統合モデルを形成し、大麻による地域経済の自立化を狙う国家戦略である。このエコシステムには、すでに韓国・イスラエル・カナダの企業が提携交渉を進行中であり、輸出を前提としたGMP(医薬品品質)やHACCP(食品衛生)認証の整備も急ピッチで進められている。つまり、タイは「単なる原料供給国」ではなく、「完成品を輸出するカンナビス大国」への変貌を目指しているのだ。
“アジアのライバル”はまだ眠っている
現在、アジアで本格的に大麻市場を解禁している国は、タイのみである。中国、インド、韓国、日本はいずれも、医療分野でさえ慎重な姿勢を崩していない。これにより、タイはアジア域内における「唯一の合法供給国」としての地位を得ている。特に注目されているのが、中東市場(UAE・イスラエル・サウジ)と、欧州の医療大麻需要であり、タイ政府は2024年から、「タイ産CBD」の海外認証・輸出加速を目指す通商協定の整備も準備中だ。アジアが出遅れている間に“合法地位”を確保したタイは、まさに市場支配の先行者利益を最大化しようとしている。あるカナダ系CBD企業のCEOはこう語る──「ゴールドラッシュに必要なのは、ツルハシよりも土地の権利書だ」。
国内での課題:法制度と政治の変動リスク
とはいえ、順風満帆とは言いがたい。タイ国内では、政権交代により再び“部分的再禁止”が検討される動きもある。現在の法律は「非犯罪化」ベースであり、包括的な「大麻法」は未成立のままであるため、法的グレーゾーンが生じ、投資判断を鈍らせているのも事実だ。さらに、都市部と地方でのモラルギャップ、未成年利用問題、観光とのバランス、違法輸出リスクなど、急成長する市場特有の“社会的耐性”の未整備も課題となっており、制度の空白地帯が混乱の温床となりうる。このような状況では、短期的なバブルで終わる懸念も拭えず、真の意味での制度設計と社会的コンセンサスの醸成が求められている。

タイは“アジアのオランダ”になれるのか?
「カンナビス・ツーリズム」「CBD輸出」「農村の再生」「高齢化対応」──タイは複数の社会課題を、大麻という新産業によって同時に解こうとしている。だが、本当に持続可能な“グリーン・ゴールド”を掘り当てるためには、制度と文化、経済と倫理のバランスが不可欠である。カナダ、米国、イスラエル、ドイツの事例を見ても、“合法化”という行為だけでは成熟産業にはなりえないということは明白であり、むしろその後の育成こそが本番だ。だからこそ、タイが進む道は、単なる「解禁国家」ではなく、アジア初の“文化としてのカンナビス経済”の創造であり、国家としての成熟を試されるフェーズへと突入しているのだ。未来を拓く鍵は、法改正ではなく、ビジョンと実装力にある。