ゴルフは動く坐禅だ──一打一打が“今ここ”の訓練 silhouette of golfers hit sweeping and keep golf course in the summer for relax time 打つ前に深く息を吸い、目線を一点に集中させる。手の力を抜き、静かに構え、雑念を手放す。そして、音もなく振り抜く──その一連の所作を見ていると、そこには武道の「型」にも、仏教の「坐禅」にも通じる精神性がある。ゴルフとは、ただのゲームではない。それは一打一打を通して“今ここ”を生きる、「動く坐禅」である。 坐禅が教えるのは、「結果に執着しない集中」 仏教における坐禅(ぜん)は、何かを得るための手段ではない。むしろ、何も得ようとしない状態そのものに価値があるとされる。「ただ坐る」「ただ呼吸する」。そこに目的はない。あるのは、“今この瞬間にすべてを委ねること”のみ。ゴルフもまた、スコアを追えば追うほど、スイングは乱れる。プレッシャーがかかった場面でこそ、呼吸を整え、意識を“今”に戻すことがすべてになる。 「打つ」ではなく、「打たれる」。「狙う」ではなく、「任せる」。そのときこそ、ナイスショットが生まれる。 一打一打が「心の映し鏡」になる ゴルフは、他のスポーツ以上に“感情”がプレーに反映される競技だ。焦れば手元が狂い、怒ればラインが読めなくなる。ティーショットの前に、「今、自分はどんな気持ちか?」を観察できる者だけが、次の一打をコントロールできる。これは、仏教でいう「止観(しかん)」の実践である。“止”は心を静める、“観”は内側を見つめる。まさに、ゴルフは移動しながら行う止観修行なのだ。 「上手く打とう」と思った瞬間に、“無心”は失われる 坐禅の要諦は「無心」。何も考えず、ただ“あるがまま”であること。だがそれは、思考を消すのではなく、「考えを手放す」訓練である。ゴルフにおいても、「まっすぐ飛ばしたい」「入れたい」といった欲が強くなればなるほど、ミスは増える。“上手くやろう”という意識が、“今ここ”から心を引き離してしまうからだ。 無我のスイング、無欲のパット。ゴルフの極意は、仏教の核心と重なる。 スコアよりも、「心が整っていたか」を問うゲームへ 仏教において、真の修行とは「自分の心がどう動いたかを知ること」である。同じように、ゴルフというスポーツの本質は、スコア以上に「その一日、自分の心がどう揺れ、どう戻ったか」にある。「完璧なショットを打ったか」ではなく、「ミスの後、どう呼吸し、どう構え直したか」を問う。この視点が加わったとき、ゴルフは単なる競技から、“自己観察の道”へと昇華する。 18ホールは、18の“今”である 一打一打に、欲が出る。怒りが出る。執着が顔を出す。だがそのすべてを、芝の上で受け止め、手放す。ゴルフは、現代人にとっての“可視化された瞑想”であり、“動く坐禅”そのものである。最後のホールを打ち終えたとき、振り返るべきはスコアではない。 「自分は何度、呼吸を整えられただろうか」「怒りをどう扱い、欲をどう観たか」その問いの先に、仏教が教える“智慧”がある。