ヒップホップ坊主、グリーンで悟る──ゴルフが教える慈悲と集中

「煩悩まみれのこの時代、俺の修行は“スタジオ”と“グリーン”の上にある」。そう語るのは、かつてMCバトルの檀上に立ち、今は法衣とパターを両手に持つ、ある“ヒップホップ僧侶”である。ビートで心を研ぎ、スイングで己を知る。彼にとって仏道とは、寺の中にあるものではない。音の中にあり、言葉の中にあり、そして風と芝のグリーンの上にある。

ゴルフは“慈悲”を養うスポーツである

「ゴルフで最も大事なのは“自分以外の存在”を意識すること」と彼は言う。前の組を待つこと、相手の集中を乱さないこと、グリーンを丁寧に整えること。そこには、競技性とは別の“配慮の連鎖”がある。「ゴルフは他人の心を読まない。でも“気を遣う”。それって、慈悲そのものなんだよね」仏教における慈悲とは、単なる“優しさ”ではない。他者の苦しみに共鳴し、静かに行動に移す力である。音楽の現場で他人とぶつかってきた彼にとって、ゴルフが教えてくれたのは“競わずに共にある”という感覚だった。

スコアを追うな。今を打て。

彼は言う。「俺たちは常に“スコア”を気にしてる。再生数、登録者数、月収、いいね数……でも、本当に大事なのは“今の一打”だけなんだよね」スコアカードに一喜一憂するほど、集中は散る。目の前のショットに全意識を注ぐ。その瞬間の無心こそが、仏教でいう“定(じょう)”の状態だ。「音楽でもラウンドでも、“今”に入った瞬間って、時間が止まる感じがある。それって坐禅の“止観”に近いよね。打つときは呼吸しか意識してない」ゴルフは、外から見ればただの球打ちだ。しかし内側で起きているのは、自我と欲望と失敗との対話である。そして、それを何度もやり直すことでしか得られない、静かな理解がある。

“フロー”とは悟りに最も近い場所かもしれない

ヒップホップにおける「フロー」、つまりビートに乗る感覚は、仏教的な“禅定”と通じる。頭で考えず、心で感じて、身体が勝手に動いている──その無意識のゾーンは、スイングにおいてもラップにおいても同じだ。「フローって、悟りに一番近い気がする。コントロールしようとしたらすぐ消える。でも委ねると、全部つながる。マイクも、風も、クラブも」彼は、自分を表現する言葉を見つけようとするのではなく、言葉の方から“降りてくる”感覚を信じる。それは、仏教でいう“法(ダルマ)”の響きとも近い。

現代の“行”は、フェアウェイの上にもある

「俺にとって、スタジオも寺もグリーンも、“行”の場所なんだよ」修行とは、山にこもることでも、世間を捨てることでもない。むしろ、日々の中で心を整える技術を研ぎ澄ませること。怒り、焦り、欲望、嫉妬──すべてを見つめ、手放していくこと。彼にとって、そのトレーニングの場が、芝と風と沈黙に囲まれたフェアウェイなのだ。そこでは、他者への配慮と、自己への誠実さが試される。

競わずに“響き合う”道へ

ヒップホップはバトルの文化を持ち、仏教は“解脱”という目標を持ち、ゴルフはスコアを競うゲームだ。だが彼は言う。「本質的には、全部“響き合い”だと思う。怒りをぶつけるんじゃなくて、違いを尊重する。間違えても、戻れる。“今”に帰れる。それを教えてくれるのが、仏教であり、ラップであり、ゴルフなんだよね」芝に書いた言葉は、風に消えていく。だがその一打、その一節、そのひと呼吸は、確かに何かを残していく。ヒップホップ坊主は、今日も静かにグリーンを歩く。言葉ではなく、態度で語りながら。