Red Eyeのライブを見た者なら、その“入り込み方”の異常さに気づくだろう。体は微動だにせず、目は見開き、言葉は滝のように流れ出す。まるで意識がどこか別のレイヤーに“切り替わっている”。本人もインタビューでたびたび語っている。「ステージは“呼ばれている”感じ。あっち(別次元)に行ってる」これは、音楽のパフォーマンスというよりも、儀式的トランスに近いものだ。その瞬間、彼にとってヒップホップはもはや娯楽ではなく、媒体(メディウム)となる。
Red Eyeのラップは、明らかに「語彙の選び方」が異質だ。若手ラッパーに多い“カッコつけ”“韻遊び”よりも、彼の言葉は音の波動と“念”を伝えることに重点がある。例えば次のようなリリック──「吸い込む煙、沈む意識、浮かぶ命の座標」これは詩でもあり、祝詞でもあり、祈りでもある。彼にとってリリックとは、聴かせるものではなく、“通すもの”=シャーマニックなエネルギー伝達なのだ。