ドクター・ドレーが“チョイス”を変えた日

『The Chronic』がヒップホップと大麻を結びつけた瞬間

煙の向こうに見えた、新しいヒップホップの風景

1992年、アメリカ・ロサンゼルス。ドラッグと暴力が蔓延し、ロドニー・キング事件による暴動の爪痕が残るこの都市で、1枚のアルバムが放たれた。Dr. Dre『The Chronic』。“Chronic”とは、高品質マリファナのスラング。アルバムジャケットは、巻紙ブランド“Zig-Zag”を模し、音の隙間にはライターの火と煙のイメージが充満していた。この作品は、単なる音楽ではなかった。ヒップホップの「大麻コード」を解禁した作品だった。

90年代初頭──ヒップホップと“麻薬戦争”の最前線

1980〜90年代、アメリカではレーガン政権の“War on Drugs(麻薬戦争)”が激化。黒人・ラテン系の貧困コミュニティは、ドラッグ使用や所持を口実とした大量逮捕・収監のターゲットにされた。当時のヒップホップもその影響を強く受けていた。Public EnemyやN.W.Aは、麻薬を「敵」として描いたり、麻薬取締官(DEA)との対立をラップに刻んだりしていた。リリックにドラッグを登場させる場合も、主に売人視点や社会批判文脈が主流だった。つまり、“大麻を吸ってハイになること”を正面からポジティブに描くことは、まだ“禁忌”だった。

『The Chronic』:ヒップホップの“吸う側”を解禁した1枚

そんな空気を、根本から変えたのが『The Chronic』だった。ドクター・ドレーは、N.W.A脱退後のソロデビュー作として、あえて「大麻文化」をタイトルに据えた。この決断は、ヒップホップの“ドラッグ語彙”を根底から塗り替えるほどの影響力を持った。音楽的には、Pファンクやソウルの影響を受けた「G-Funk」スタイルを打ち出し、スムーズでメロウなビートが、“ハイ”な感覚と抜群に合致していた。そして歌詞は、Snoop DoggやDaz Dillingerら若手をフィーチャーしながら、「吸ってることを誇る」「ライフスタイルとして肯定する」という新しい語り口を確立した。

「Nuthin’ But a G Thang」や「Let Me Ride」は、ライターの火を灯す音、吸引音、煙に包まれる感覚をサウンドで“吸わせる”構造をもっていた。

このアルバムの大ヒットにより、「大麻=リアルでクール」という価値観が広まり、以後のヒップホップは、“売る側”から“吸う側”へと表現がシフトしていく。

“ストーナー文化”という新ジャンルの誕生

『The Chronic』が大麻とヒップホップを結びつけたことで、以後のラッパーたちは、「スモーキング」そのものを表現の核に据えることが可能になった。その直後に登場したのが、Cypress Hillであり、スヌープ・ドッグ、Redman、Method Man、Wiz Khalifaといった“ストーナー・ラッパー”の系譜である。これらのアーティストたちは、もはや大麻を「背景」ではなく「主役」として歌う。“巻く・吸う・ハイになる”という日常行為そのものが、リリックとライフスタイルの中心に置かれるようになった。また、ストーナー文化は音楽だけでなく、ファッション(グリーンカラー、リーフモチーフ)、グッズ(巻紙、ライター、ボング)、イベント(4/20 フェス)、など、広範囲なサブカルチャーとして定着していった。

大麻合法化とアーティストの社会運動化

『The Chronic』以降の数十年で、アメリカでは大麻合法化が州ごとに進み、ヒップホップアーティストたちも、ただの消費者ではなく“起業家・活動家”として立ち上がっていった。Snoop Dogg → 自身の大麻ブランド「Leafs by Snoop」展開。Jay-Z → プレミアムライン。「MONOGRAM」をプロデュースし、元受刑者の雇用支援へ。B-Real(Cypress Hill) → 医療大麻啓発やフェス主催など、長年にわたるアクティビズムを実践。この動きの源流には、常に『The Chronic』があった。大麻を“秘密の快楽”から“堂々たる文化”へと変えたその作品こそが、すべての始まりだったのだ。

“音を吸わせた”アルバムが、社会を変えた

『The Chronic』が登場した日、ヒップホップの“チョイス”は変わった。それまでは、リリックでドラッグを避け、あるいは売人として描いていたラッパーたちが、この日を境に、「吸っていい」「吸って語っていい」と自らに許可を出せるようになった。そしてその選択は、ただの音楽表現を超え、大麻合法化運動や文化的シフトを支える社会変革の一翼を担うことになった。1枚のアルバムが、価値観を変える。『The Chronic』はその最たる例である。