あなたの無関心が、“誰かの選択肢”を奪っている

医療大麻をめぐる沈黙が、子どもたちの苦しみを延ばしている

「私は関係ない」その姿勢が、誰かを孤立させている

医療大麻──この言葉に対して、拒絶するわけでもないが、積極的に関わろうともしない。いまの日本で最も多いのは、こうした“無関心”の層かもしれない。だが、その無関心が、制度の変化を妨げ、必要な人の選択肢を奪っているとしたらどうだろうか。医療大麻は、いまや世界中で特定の疾患に対する治療オプションとして認められつつある。米国では難治性てんかんに対するCBD製剤「エピディオレックス」が正式に承認され、イギリスやイスラエルでも医師の裁量で処方が可能だ。実際、てんかんの発作を劇的に減らし、夜眠れなかった子どもが普通の生活を取り戻したという事例は数多く報告されている。しかし日本では、いまだに制度上の空白が大きく、「処方できない」「研究が進まない」「議論すら避けられる」という閉鎖的な状態が続いている。その最大の要因は、反対派よりもむしろ、「興味がない」「触れたくない」といった無関心である。

その沈黙が、誰かの苦しみを延ばしている

CBDによって命が救われた子どもがいる一方で、日本ではそれを知りながら使えない子どももいる。そして、その事実に多くの人は気づいてすらいない。声を上げても届かない。情報を発信しても広がらない。制度を変えようにも、社会的な後押しがない。そうした空気の中で、子どもを抱えた親たちは孤立し、「誰にも理解されないまま」日々の発作と闘い続けている。法律が変わる前に、子どもの身体が壊れてしまうかもしれないと不安を抱えながら。制度を動かすのは、声の大きい少数ではない。“気づいた多数”の存在こそが、社会を変える鍵になる。だが、医療大麻の議論では、その多数がいまだ沈黙したままだ。

「関係ない」と思う人にこそ、関係がある

あなたの子どもが使うことはないかもしれない。あなた自身が処方されることもないだろう。だが、あなたの“無関心”が、他人の選択肢を奪う側に加担している可能性があることを、どうか忘れないでほしい。制度が変わらない限り、多くの人は声をあげることすらできない。声をあげれば叩かれる、偏見の目で見られる。それがいまの日本社会における「医療大麻」という言葉の重さだ。その空気を変えるのは、一部の専門家や政治家ではない。日常の中で、「これはおかしい」と気づいた一人ひとりのまなざしだ。

あなたの“態度”が、誰かの命に影響を与えている

ビジネスの現場では、変化を恐れることは停滞を意味する。医療や制度においても同じだ。世界がすでに認めている科学的選択肢を、「議論すらされない」まま放置していること。それは、倫理以前の問題だ。もしあなたが「別に賛成ではないが、反対でもない」と感じているなら、それは変化の可能性を宿しているということでもある。傍観者でいることが、制度の維持装置になってしまうのか、それとも社会の更新を後押しするか。その境目は、思っているよりもずっと小さな関心の差にすぎない。医療大麻をめぐる議論は、もはや“薬物問題”ではない。それは、“社会が誰の苦しみに耳を傾けるか”という問いである。あなたの静かな無関心が、明日の誰かの苦しみを延ばしてしまわないために──どうか、見て見ぬふりをしないでほしい。